月桂樹の冠
【アボロンとダフネ】


女神アフロディテの息子エロスは永遠に年をとらない悪戯好きで無邪気な可愛いらしい神でエロスの手に持つ矢は様々な悲恋や悲劇を生みました。

エロスの弓矢に討たれたら主神ゼウスは勿論の事、母アフロディテでさえ例外ではありませんでした。

ある日、オリンポスの山中でアポロンとエロスが出会いました。

武術に優れたアポロンは、弓矢では誰にも負けないという自信と誇りがあったのでエロスの小さな弓矢を見てからかい始めます。

「コラッ!悪戯坊主!
一丁前に弓矢なんか持って危ないじゃないか!
何が射てるんだ!?
あそこに野兎がいるけど見事に射てたら誉めてやる」

「僕の弓矢はそんなんじゃないんだ!
伯父さんだって、この矢に当たったらイチコロだよ!」

「そんな玩具の弓矢なんか当たったっても痛くも痒くもない!」

「でも気を付けた方がいいよ!
油断してるとプチュンと射ち込むよ」

「あ−、いいとも!」

アポロンはエロスに軽く言うと、そんな事が有った事など、すっかり忘れていました。
しかしエロスの方は忘れずに良く覚えていました。

パルナソス山の頂上に戻ったエロスは、背中から2本の矢を取り出して四方を見渡すとアポロン目掛けて《金の矢》を放ちます。
そして、もう1本の《鉛の矢》を『河の神』ペ−ネイオスの娘ダフネに放ちました。
こうしてエロスが放った各々の弓矢は双方の胸に命中しました。

エロスの《金の矢》に当たった者は、相手に恋焦がれてしまいます。
しかし《鉛の矢》に当たった者は、相手から愛されても好きになる事はないのです。

まだ年若い娘ダフネは、長い髪を1本のバンドで無造作に束ねて羊飼いの衣裳をまとい色恋などには興味はなくて、野山を散策して草花を摘んだり、動物を追ったりするのが好きな活発な少女でした。

ダフネ自身は自分の美貌を意識した事などなく、是非、妻に欲しいと言い寄る男達は後を絶ちませんでした。

「結婚の申し込みが来てるが、どうだ?」

父ペ−ネイオスが薦めてもダフネは首を横に振るばかりです。

「お父様!
私はいつまでも清い身体でいたいの!!
女神アルテミス様にも約束した事ですもの!」

『月の女神』アルテミスは、アポロンと双子で純潔を愛する処女神として一生を過ごしています。

ダフネはそんな女神アルテミスに憧れて、彼女の様に一生を送るのが望みでした。
そのタフネの思いはエロスの鉛の矢をその胸に受けた事で、より一層強いものになっていたのです。

いつもの様にダフネは両腕をむき出しにして膝までしかない短い服を着て、風と共に髪を乱しながら森を駆け巡っていました。

「なんと美しい娘だ…。
是非、私の妻にしたい!」

エロスの金の矢を受けて、ダフネに心を奪われたアポロンは彼女に話し掛ける機会を伺って、ダフネの散策する道筋で待ち伏せをして話し掛けます。

しかしダフネは見向きもせずにクルリと背を向けて逃げ出すだけでした。

オリンポスの神々の中でも際立って凛々しい風貌のアポロンも少女の眼には魅力を感じる事のない人でした。

そんなアポロンの恋心は、ダフネの仕打ちに合えば合う程に切なく募るばかりで一日中、ダフネの姿を追い求めていました。

いつもの様に野辺の小道を巡り歩くダフネを見つけたアポロンは、疾風の如くダフネの前に現れました。

「ダフネよ、振り返って良く見るがいい。
私はオリンポスの神々の一人で大勢の娘達に慕われているアポロンだ。
決してお前に危害を加えるつもりなどない。
どうして、そんなに私を避けるのだ?
まるで狼を恐れる小羊の様に…」

そんなアポロンの問い掛けにもダフネは耳を傾けようともせずにアポロンを見た途端に駿馬の様に足を駆って逃げ出すだけでした。

「待ってくれ!
どうしてそんなに私を嫌うのだ?
私は竪琴を弾いては誰にもひけをとらないアポロンだ。
歌声はニンフ(妖精)達の心をもとろかす。
それだけではない。
病める人々はこぞって私の加護を求める。
オリンポスの神々の中でも悪しき病から人々を救えるのはこの私だけなのだ。
お前の愛を求めている者の姿をしかと確かめるがよい」

アポロンの叫びは少女の耳まで届いているのか…?
一向に効果はなく、ただひたすら逃げるだけでした。

かくなる上はアポロンも力の限り追い掛けるしかありませんでした。
暫くは追う者と追われる者のレ−スが続きましたが駿馬の様な少女の足も神の追跡には及びませんでした。

アポロンの手がダフネの肩に掛かりそうになった瞬間、ダフネは叫びました。

「お父様、助けて!
私はいつまでも清らかな身体でいたいの!
例えどの様な物に姿を変えようとも…!」

『河の神』ペ−ネイオスは、ダフネの願いを聞き入れました。
ダフネの叫び声が消えるか消えないかのうちにダフネの肌は急速に強張って褐色の粗い樹皮と化して、風になびいていた髪はたちまち緑の葉になりました。
そして、天に向かって差し伸べられた腕はそのまま木の枝になりました。
さっきまで走っていた脚も大地に張り付き、みるみる地中にめり込んで根を張りました。

アポロンは一瞬、自分の目を疑いました。
彼が恋焦がれて、ようやく抱き締めた少女は一瞬にして1本の月桂樹と化していたのです。

アポロンは3日3晩ダフネの樹の下にうずくまって泣き続けました。
アポロンは月桂樹の枝を切り、それで輪を作って冠にしました。

「愛するダフネよ。
お前は私の妻にはなってくれなかったね。
だが私はお前の事は忘れない。
その愛の証にこうしてお前の枝で冠を作り、いつまでも私のそばに置いておこう。
それだけではない。
戦場や競技場で素晴らしい勲しを立てた若者には、きっとお前の枝を与えて頭を飾らせよう!」

アポロンが頭に巻き付けているのは月桂樹の枝です。

古代オリンピックで勝者の頭に月桂樹の冠が与えられたのも、この故事からです。


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