なのは小説

プロローグ
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 それは、何処とも知れない場所で、冬の寒い夜のことだった。

「ねぇ、連れて行って」

 そんな声が聞こえた気がした。
 ……ごめんなさい。
 何処に連れて行っていいか、僕には分かりません。例えるなら僕は、タンポポの種。
 ゆらゆらと。ふわふわと。
 雪の様にただようだけなのです。

 その種を、連れ去るように、一陣の風が吹いた。

 気付けば、僕の腕が引かれていた。
 お母さん?
 閉じていた目を開く。そこには見覚えの無い少女がいた。
 僕は朦朧とした意識の中、その大きく力強い瞳を視界に捉えた。そして、僕の手の中にあるその大きな手が、見失いそうな大きな背中が、会えなくなって久しい母の姿を連想させた。
 ざく、ざく、と雪を踏みしめる音が聞える。
 少女は歩き出していた。
 ……すみません。僕はタンポポの種、自分では何処にも行けません。こうして、あなたに吹き上げられなければ、どうすることもできないのです。
 
……少女は歩くのをやめない。

「手が冷たい人は、優しい人なんだよ」

 そう言われて、彼女の大きい手を見る。
 そこには、見間違えたかと思うほどの華奢な手のひらがあった。
 ああ、確かに冷たい。
 僕が彼女を認識する。そこで初めて、それが冷たいということを理解できた。まるで、雪で作ったように冷たいくせに、それは僕の体温では溶けそうにない。
 
……少女は歩くのをやめない。

 彼女の大きな背中を見る。
僕の視界を埋め尽くすほど、大きく感じられていた背中は、見間違えたかと思うほどに、小さく哀しげだった。
 僕が彼女を認識する。そこで初めて、彼女の存在を実感した。

……少女は歩くのをやめない。

 彼女の大きく力強い瞳を見る。
 ともすれば泣きそうな顔に見えたそれは、見間違えることなく、力強いままだった。
 僕が彼女を認識する。そこで初めて、母と見間違えたのを驚くくらいに、彼女が小さい小さい少女だということが分かった。

……少女が歩くのをやめた。

 タンポポの種は、風が止んだので地面に落ちた。
 ありがとう。冷たい手をした優しい人。
 雪道の傍らで潰えるはずだった僕は、あなたに吹かれて、ここまで来られました。
 此処が何処だかは分かりませんが、あなたが起こす風は、とても心地のいいものでした。
 だから、ありがとう。

「この場所……」

 少女が何かを眺めている。
 その何かを理解しようと、閉じかけたまぶたを持ち上げ、必死で意識を覚醒させる。彼女がまた風を起こしてくれるなら、僕はできうる限り、その風に乗っていたかった。
 
「見える?」

 そう言って、何処かを指差す。途端、少女が指差したところが、ぼんやりと光りだした。一瞬、彼女が光らせているのかと思ったが、違った。
 
 いや、正しかった。

「朝日だよ」

 そう言って彼女が笑う。
 それは、太陽のような笑顔だった。
 僕を照らす、眩しい笑顔だった。
光に照らされた世界が、瞬く間に色づいていく。
今立っている小高い丘や、彼女が眺める朝焼けや、今来た道も、全てが鮮明になっていく。
――でも本当は。
 本当は、朝日なんか昇っていなくて。
 彼女だってかなり疲弊していることも知っていた。
 それでも僕は
 彼女が朝日を視るように、僕も、確かに太陽を見ていた。とびきりに輝く笑顔が照らし出した世界を見ていた。そこには確かに、手の冷たい太陽がいたんだ。

 冬の日、太陽に一番近い丘で、タンポポの種から花が咲いた。
 咲いた花は蒲公英ではなく、向日葵だったけど。
 僕はそれでよかった。
 向日葵は、太陽を見るために生まれてくるのだから。

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